2004.10.12 玄関について考えてみますと・・
玄関という言葉は、寺院関係の言葉であり鎌倉時代に禅寺方丈の入り口を玄関と呼び始めました。江戸時代になると玄関は武士だけにしか許されず、住む人の身分を表すものとして町人・農民には禁じられていました。明治以降にこの禁令が解けました。
 さて、家を訪れた人が最初に目にするのは門であり、玄関です。したがって門は「敷地の顔」、玄関は「家の顔」だと言われるのです。
 昔から「辰巳(東南)の玄関」は大吉相といわれ、家の中心から東南にある玄関は家に祝福と繁栄をもたらす構えと言われています。
 旧い家相が前提としている家造りでは、野原に200坪くらいの家を建てた場合にお客様を迎える場所として、易経の思想から来る方位の意味から東南の玄関を吉方としたようです。  
昔は区画整理などなく、道路の配置から家の間取りを考えることがなかったこともあるのではないでしょうか。北側に道路がある敷地の場合、東南に玄関を配置すると回りこまないと家に入れないことになり、使い勝手や防犯の面からも不便です。
 そこで現代の住宅に求められる玄関を、合理的な発想で検討していきますと、たとえば来客の多い家なら接客スペースを考えた使い勝手の良さ、訪ねて来る人を楽しく迎える雰囲気を作ることが大切となります。
 清潔を保つこと、物を雑然と置かないこと、明るさを作るなどの努力で良い玄関にしてください。


2004.10.06 間取りについて 
〜これからだんだんと充実させていきますので乞うご期待〜

 住宅の中にどのように部屋を配置すれば便利で快適になるのか、それを家族構成やライフスタイル、土地の条件などから計画することを「平面計画」といいます。
もちろん、費用の面も大きな課題ですから、極めてシビアに検討していくことが大切となります。
 家を構成する要素として・・
@家族全員が利用する場所〜玄関、トイレ、洗面、フロなど
A家族が集まる場所〜リビング
B家族の個人が使用する場所〜寝室、子供の部屋など

 これらの要素を確認したうえで、家相でいう配置についてお話をしていきます。
 それは、大昔には@の要素はなく、AとBの場所についても戦前までは明確な区別をつけにくいからです。寝る部屋と食べる部屋を分けようという寝食分離が日本で唱えられ始めたのは、昭和15年頃と言われています。
 家相の元になる考えが中国から伝わった時代、江戸時代後期にいわゆる家相のかたちが固まった時代、そして現代の住宅では建て方、様式が大きく違います。
 ここでは自然と仲良くするための基本的な考え方を元に、古代も現代も変わりのない家族と家を大切にするという気持ちから、各部分についてみていきます。


2004.08.04 鬼門について 〜その2〜
 鬼門を恐れるようになった経緯について、わかりやすい説明がありますので、松嶋重雄氏の家相の記述から鬼門に対する説明を引用させていただきます。

 古来、日本の住居は夏の風通しに重点を置いて造られています。「夏を旨とすべし」という言葉を聞かれたことがあると思いますが、開方式の便槽から発生する臭気は風によって建物内に広がり、夏の間の臭気被害は避けられないものでした。
(昭和40年頃になって、便所の換気筒ができて臭気を強制的に排気できるようになるまで、ツライものでした)
 特に京都・奈良では真夏(7〜10月)に東北の風が吹くことが多く(「理科年表」〜国立天文台)、この地域で東北に便槽を設けると、夏を快適に過ごすことが不可能となります。
 このタブーを分かりやすく大衆に説明するために、陰陽師が鬼門の東北凶方を用いたと考えるのが自然で、多くの人を納得させて理由として相応しいものです。
 風向きは地方や季節によって異なりますが、鬼門が合理的な意義を持つのは京都・奈良に限られるのであり、現在日本中に浸透している鬼門とトイレの位置関係は、平安の昔から、「都のきまり」を理由抜きで全国に伝承した結果なのです。
 日本では、全国的に夏は南風が吹くところが多く、建物の北側に便所を設けると臭気の被害が少ないのが普通であることから、長い間、鬼門と便所の関係が実害の少ない配置として容認されてきたと考えられます。
 冬は臭気が気にならないため、東北の風について気にしなかったといえます。
以上です。

 鬼門の言葉は笑い話と言う、おやじの主張がご理解いただけたでしょうか。
それと方位は北は子とか、南は午というように記号を当てますが、鬼門の東北は丑寅の方位となります。日本の鬼はトラのパンツに牛のツノです。本当に中国からの伝来であれば、「鬼」(キ)つまり霊魂でなければなりません。中国の「キ」はキョンシーをイメージいたほうがいいかもしれませんが霊魂なのです。ところが日本は「鬼」(オニ)なのです。
ジャパンオリジナルの思想でしかないのです、鬼門は。
 これらの根拠や現代の設備では鬼門を恐れる合理的理由は見つかりません。
かといって、「ご不浄」とトイレを呼ぶのは日本中に根付いていますし、いくら説明をしたところで、鬼門という文字から逃げられないのが人情というものです。否定は無理です。
 ですから、私は古式ゆかしい家相の原点に戻ってみれば、表鬼門のトイレの場所にこだわっていたのが鬼門の根拠なわけですから、トイレ(便器の場所)は表鬼門を外した設計を主張しているのです。それだけでいいのです。


2004.07.26 鬼門について  〜その1〜
 東北の位置を表鬼門といいます。
 家相の方位盤では、東北を中心とし、北と東に22.5度ずつの合計45度の範囲が表鬼門になります。反対に南西の45度を裏鬼門になります。

 多くの家相家は、鬼門は特に注意すべき場所であり、ここにはトイレ、風呂、キッチンを置いてはならないと述べています。

 「鬼門」の語源は中国の古い伝説で、おとぎ話を満載した「山海経」です。(中国の東に度朔山という山があり、その山に40里四方に伸びた桃の木の東北に伸びた枝に、死人の霊魂が出入りするという門があって、それを鬼門といいました。)

現場としては、表鬼門の東北は日当たりが良くないこと、冬の寒い季節風が来るという方位の特徴を考慮した設計が肝要でしょう。裏鬼門は西日による温度上昇、夏に吹く南西の湿った季節風という特徴を考慮しておいてください。
 
 表鬼門・裏鬼門という考え方は、古代中国の天円地方説、易経・民話、仏教の考え方、奈良・京都の風向きなどから、陰陽師がつくりだした日本独特の考えです。

 平安京の原型といわれる唐の長安、北宋の開封に鬼門に対する配慮はありません。
 ということは、中国では地相・家相の面で鬼門を問題にしていないという証明になります。これは風水を学べばもっとご理解できると思います。

 余談ですが、平安京の鬼門の位置に比叡山を設けたというのは間違いです。
それは比叡山が建立されたのが788年、平安京の位置を内定したのが793年の和気清麻呂による天皇への奏上のときです。平安京の場所が内定する5年前ですよ。
いくら時代が現代より緩やかに流れていた頃とはいえ、平安京の計画に併せて比叡山を建立という説は、時間的に無理があると考えらます。

 文典が多く引用が大変なので省きますが、天円地方説による物の怪のすみか、易経と民話、仏教などから、四神・四門の考え方を陰陽師たちが考えたのです。
 平安時代の陰陽師たちは、易経の万物の終わりという表現を「死」と解釈しました。鬼籍に入った人々の死霊の祟り、法華経など仏典に出る鬼神、中国の民話、輪廻転生などをブレンドしちゃったのです。
 鬼がいるからという空想では、鬼門の理由を納得させられません。
 鬼門と便所の関係に、生活と密着した理由が必要です。
 それが京都・奈良の風向きです。


2004.07.26 現代家相について
 家の造り方・設備は信じられないくらいに発展しました。そのおかげで「防災・衛生」という旧家相が課題としていた事項は、設備がクリアしてしまいました。

 ところがここに現代家相という新しいテーマが生まれることになります。設備と工法の向上は別の課題を私たちに突きつけてきたのです。

 それは換気と湿気に対する対策です。魔法瓶のような家というのはよく現代住宅の比喩で使われますが、まさに魔法瓶が問題なのです。

 旧家相が前提としていたのは、お寺の本堂をイメージしていただきたいのですが、風通しの良い(良すぎる)吹きさらしの家です。サッシがないわけですから、おそらく1時間に3〜10回分は室内の空気が循環するものでした。現代住宅はどうでしょう。まず空気が入れ替わることはありません。まさに「七輪で自殺が出来る家」が現代住宅なのです。

 ホルムアルデヒド、シックハウス症候群という言葉を聞かれたことがあると思いますが、まさに換気がないからこそ、新建材から出る化学物質の影響を受けるわけです。
 塗料や接着剤、新建材から出る物質に関してはここでは述べませんが、「七輪で自殺できる家」は蚊取り線香やシロアリ対策の薬剤まで、病気の原因にしてしまったのです。

 占いコーナーにある家相の本には、結露の記述はないはずです。それは前提としている家が違うからです。

 ということで、これから毎月現代における家相のポイントを語っていきますが、断言したいのは「方位や鬼門で語れる家相」の時代は終わったということです。
 これからの家相は「安全」「快適」「健康」「防犯」がテーマにならないといけません。

 ペットの問題やコンセントの場所といった現実的な家相を知ることで、本当に気持ちの良い家造りを考えていきましょう。


2004.07.26 旧家相の検証
日本で家を建てる場合に問題となるものは・・地震国であること、温帯(亜熱帯に近く梅雨という雨季があること)という自然条件に加え、設備としてはトイレ、フロ、台所の場所が問題となります。

地震対策→これは、家の強度設計ということになりますが、四角い家と張り・欠けのある家ではどちらが強い家を作ることが出来るでしょうか。もちろん四角い家です。重心と剛心の違いが出るのですが、家は四角いほど強く造ることが出来ます。面白さはありませんが、部屋の効率、建てる手間、材料の軽減などを考えますと、家相が張り・欠けを嫌う理由が理解出来ます。実際に張り・欠けが嫌われたのは儒教の中庸の思想を反映したものです。単純で平凡なかたちが望ましいという考えです。欠けに関しては「欠ける」という言葉を嫌ったもののようです。主人が欠ける・・ということです。

温帯対策→暑い日本です。「家相は夏をもって旨とすべし」です。のきをだ出して、風通しを良くしようとしました。恐ろしいことです。だから家のどの場所に置くかが問題となりました。これは基本的に日当たりと風向きにより場所が決まってきます。  

トイレ対策→家相でいうトイレは「こえだめ」をイメージしないとわかりません。うんこ、しかも毎日新しい汚物が出てくるのです。これは恐ろしいことです。だから家のどの場所に置くかが問題となりました。これは基本的に日当たりと風向きにより場所が決まってきます。  
現在の家のように浄化槽や下水でうんこが家の中にないというのは、家相が前提としたものではありません。
別の視点でみないといけないのですよ、現在の家は。

フロ対策→井戸から水を汲み、運んできて、火で沸かすという作業が必要でした。しかもアカや汚れが出たでしょうとし、使った残りの汚水の処理も大変でした。
私はおフロ当番ですが、水道があるため洗うのも簡単ですし、温度設定をすれば心地よいお湯が出てきます。使った後は栓を抜けばオシマイです。

台所対策→毎日かまどで炊事をしていたのです。冷蔵庫はありません。行政が生ごみを持っていってくれるわけでもありません。生きていくために食事は不可欠ですが、料理を作る環境というものは大変に危険で劣悪でした。

もう皆さんおわかりですね、まともな家相で検証してみますと、家に悪さをする要素の気候風土と設備に対応するために、家相として間取りなどに対する知恵が生まれたのです。

ところが現代の家はどうでしょうか。電気・水道・ガスの充実と設備の発達は旧家相が前提としていた悪さを無害にしてしまったのです。
正直に申し上げて、仮に1000軒の家に敢えて鬼門にトイレを作ったとしましょう。その1000軒のうち7〜800人のご主人が亡くなれば鬼門の恐ろしさが証明出来ると思いますが、鬼門のせいで死ぬ人はまずひとりもいません。
 別項目で鬼門について説明しますが、方位や置場所で吉凶が左右されないくらいに、設備は充実・安全になったのです。


2004.07.22 旧家相の目的について
 これは占いコーナーにある家相の本がだいたい一致しているのですが「衛生的」と「防災」というのが目的です。これに「快適性」も加えて良いでしょう。
医学が発達しておらず、設備が良くなかった時代には病気になることは一大事でした。
 そして、木と紙で出来ていると揶揄される日本の家屋ですが、火事が出ることは大変なことでした。したがって、火を取り扱う台所(かまど)とフロは要注意の設備だったのです。
 快適ということでは、風通しの良さ、匂いに対する対応が大切であり、日本の持つ気候風土に対してどのような建て方をするかで吉凶に差が出たのです。


2004.07.22 家相を構成するもの
@語呂合わせの家相〜江戸時代の古書に「家の前から道が二股に分かれている家があり、分かれた部分の両側に水溜りがあると、その家は火の災いが襲いかかる」という記述があります。これは二股に分かれる道を人と考え、水溜りを点と考え「火」という字に見えるからというのが根拠です。
バカらしいですね。本当に。

A占いの家相〜おそらく多くの家相の根拠になっています。これが困るのです。
方位に関する家相の基本的な考えは易経から来ています。この易経に書かれていることからものごとを推し量り、発想したものです。住宅環境理論としては根拠がいい加減です。 これに占い師の判断が加わったらもう鬼に金棒なのです。
 事例でみますと、東南は易経に「売って3倍の利益あり」という記述がありますが、これは商売をする人からすれば見逃せない言葉です。したがって門、玄関、信用に関する部屋などが好まれるという方位です。別に風土からきた理由ではないのです。
この易経の考えにはまともな内容もありますし、家相家の経験と説得が重なることでこの考えが主流になっています。しかし、あくまで環境理論としての根拠は薄いと言わざるを得ません。

Bまともな家相〜これは私の旧家相を認める根拠です。人々が経験によって得た知識です。
門と玄関は直線でつながないこと、寝室と台所は離すこと、天井は高くすること、床が高いのは吉、南西の窓(特に天窓)は凶、お神楽の建物は凶、大黒柱の根継ぎは凶、四方攻め・四方塞がりは凶、屋根の勾配不十分は凶などたくさんあります。本当はこれらが主流になるべきです。


2004.07.22 家相の背景となる考え方
大化の改新以降、10世紀頃までに陰陽師や僧侶など陰陽五行説を学んだ人々は、中国から伝来した易経・暦をはじめとする文化知識を日本の体質に適合したかたちでまとめつつありました。
 当時の貴族たちは死者の霊、鬼神や物の怪などの祟りに極めて敏感な生活を送っていました。
陰陽師といえば安倍晴明が思い浮かびます。式神を使ったり、怨霊を退治するなどの神秘的なエピソードはフィクションですが、平安貴族は現代の私たちからすると信じられないくらいに、呪いを恐れ陰陽道の吉凶を信じていたのです。
 たとえば、藤原道長の祖父の師輔が書いた「九条殿遺誡」には、貴族たちは朝起きると自分の運命の星である属星の名前を7回唱える、鏡で自分の顔を見て心身の調子を判断、暦を見てその日の吉凶を判断が日課であったと書かれています。
手の爪を切るのは丑の日で、足の爪を切るのは寅の日、入浴き日を選んで5日に1度などと、これほどまでに目に見えないものの力を恐れていました。
日常生活の個人的問題に対しても、陰陽師たちにことこまかに相談し、行動を決定していました。これらについては、「源氏物語」や「枕草子」にも記してあります。
 日本独特の占いは、この陰陽師たちが貴族の鬼神に対する恐怖感を解消するために作り上げたものです。しかし、家相についての記述はないのです。


2004.07.22 家相の歴史
 古代中国で八卦がつくられました。これに陰陽説、十干・十二支五行説が加わった考え方が日本に伝わりました。 
282年には中国・朝鮮の思想が伝来、522年に仏教、554年に百済から三博士(医学・易・暦)が伝わり、577年に造寺工の来日、602年に暦本・天文地理の書が伝わりました。
陰陽説・五行説が日本に入ってからは、九星説が付け加えられて広がり、ここに風水思想(本来は墓地・墳墓の場所を定める考え方であったとされる)が加わり、日本独特のものが生まれてきました。
 高松塚古墳にもありますように四神(朱雀・玄武・青龍・白虎)相応の家相が一般化したようです。しかし、当時の家造りは質素なものであり、家相も粗末なものであったようです。
当時は寝殿造りですが、この家相について貴族たちはあまり興味を持たなかったようです。しかし、物忌みとして臭気を避けるために、便所や井戸の配置については祟りを避けるための配慮をしていたのです。

 鎌倉時代から江戸時代までという長い時間をかけて、平安時代に原型がつくられた暦や方角神などの知識が、商人や武士たちにより断片的ではありますが、農村・漁村に至るまで広く伝えられました。
 この流れの中で、便所や浴室の場所は鬼門を避けなければいけないという先入観が民衆に浸透していきました。
 伝わっただけで情報としてなんらの加工もされていない、やや不正確で神がかった断片的な伝承は、便所や浴室だけでなく、仏壇・神棚の向き、床の間の向き、建具の釣り込み方、木の扱い方などに見ることができます。
 たとえば、床の間の向きを南あるいは東向きにする習慣は、陰陽説による陽の方角に対し、陰である床の間や神棚を向けることで、陰陽のバランスをとろうとしたものです。
 建具を向かって右手前に釣り込むことも、現在のサッシになっても変わっていません。これは左前を嫌う日本人独特の考え方によるものです。
 貴族たちの住んでいた寝殿造りについて家相の記録はありません。ただ、鬼門の位置にこだわったことについては、江戸時代の桂離宮に見ることができます。桂離宮は当時としては斬新な試みがなされており、屋内に浴室と厠を一組にまとめたブロックを設けていますが、鬼門をしっかりと避けています。

 江戸時代後期の町民文化の発達が家相を新しいものとして作り出しました。
平安時代に僧侶や陰陽師たちがつくりあげた暦や方角神についての知識、当時の清(中国)で流行っていた黄帝宅経・営造宅経などを選び出し、これらを基にして日本に合ったものとして(私から言わせりゃ勝手ですが)地相・家相を整理して専門書を作り上げたようです。
 里見八犬伝や瓦版など、木版印刷の普及により、町民文化が勢いづいていた時代です。
 この時代から、民衆の間に地相・家相という考え方が広まりはじめました。
 現存する文献は180を越えるといわれ、大阪、京都、奈良、など関西を中心に多くの流派が誕生しました。
 「匠家故実録」という工匠祭のテキストはこの時期に作られています。
このテキストと江戸時代に始まる建築儀式と地相・家相は強い関連性があるそうです。七福神信仰、大安などの六曜も、これらの作者・流派の人々がつくりあげたようです。
 しかし、佐久間象山(1811〜1864)などは、これらの流派に対して痛烈な批判をしていることは忘れてはならないのです。

 明治維新により、西欧文明を取り入れた明治政府は、地相・家相を妄信・迷信として否定する方針を打ち出しました。
 大正時代に知識人もこの流れに同調しましたが、一般民衆が受け入れるには至りませんでした。しかし、このあたりから地相・家相の専門家でも旧来の迷信と目される部分については改革をしようという動きが出てきたのです。

 平安時代に種がまかれ、江戸時代に開花した地相・家相に加え、1970年代に香港や台湾などから風水が伝えられました。時代の激しい変化で生まれた占いブームの影響もあり、地相・家相でも新しい考え方が誕生しましたが、どれも旧来の易経を基にした理論展開であることに変わりはありません。



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